正しさより、判断を引き受ける

世の中には、
もっともらしい正論が溢れています。

数字もある。
前例もある。
多数派でもある。

けれど、それらは不思議なほど、
誰も責任を取らない、安全な場所から語られます。

正しい事を言っているはずなのに、
そこに立っている人間の姿は見えません。


正論に従った判断は、
確かに楽です。

間違っても、
「自分だけの責任」にはなりにくい。

その場の空気がそうだった。
従来の常識がそう言っていた。
みんながそうしていた。

そう言えば、
説明はついてしまいます。


けれど、
本当に重たい判断は、
たいてい正論の外側にあります。

・情報が足りない
・成功する保証はない
・失敗したら、自分の評価が下がる

それでも決めなければならない瞬間はあります。

そこでは、
正しさよりも先に、
引き受ける覚悟が問われます。


判断を引き受けるというのは、
強さの話ではありません。

むしろ、
弱さを抱えたまま立つ、
という感覚に近い。

「間違うかもしれない」
「批判されるかもしれない」
「後悔するかもしれない」

それでも、
自分で決めたと言える状態を選ぶ必要があります。


不思議な事に、
そうして引き受けた判断は、
たとえ失敗しても、
あとから形を変えて残ります。

反省になる事もある。
修正の材料になる事もある。
次の判断を助ける感覚になる事もある。

一方で、
預けた判断は、
上手くいっても何も残らない。

成功しても、
それが自分のものだったのか、
分からないまま終わる。


このサイトでは、
正しい判断を勧めたいわけではありません。
そもそも正しい判断の定義すら分かりません。

ただ、
判断を引き受けた人間の感覚だけを、
言葉として残したいと思っています。

迷いが消えていない判断。
納得しきれていない決断。
それでも前に進んだ記録。

それらは、
次の通過点で、
きっと役に立つ。


正しさは、
後からいくらでも整理できます。

けれど、
引き受けたかどうかだけは、
その瞬間にしか決められない。


ここは通過点です。

この文章も、
完成ではありません。

読む人が、
自分の判断を
どこに置いてきたかを
思い出すきっかけになれば、
それで十分です。